la vie est merveilleuse!

ふと思いついたことの徒然をゆっくりと

友達という呪縛

さて、手前勝手な内容のブログです。
地下生活者さながらの毒吐きブログ。
ドストエフスキーさんも呆れかえる、笑


その昔
友達100人できるかな、なんてふざけた歌を教えられた幼少期。
クラス替えになる度に、
友達ができるだろうか
仲良くできるだろうか、
というそれはもはや強迫観念にも似た思いとなる。


一人でいることが苦ではない私は、
意味がわからなかった。
ゾロゾロ連んで、トイレまで一緒に行く、ってどうよ。
教室移動でも、私は用意ができてすぐにでも移動したいのに、
ぐずぐずしている人を、友達だから待たなきゃいけないの?
たった数メートル先に行くだけなのに。
意味わかんなーい。
待っていることをやめた私は次第に、いわゆるボッチとなった。
どこへ行くにも一人。自分の都合だけで良い。
これは逆に気楽で快適だった。
ぼっち、ということは、いじめられてたの?
え、そうなの?知らなかったわ😅
一人で行動できて、一人で判断できて。
そもそも一人でいることを選択したのは私だし。
その辺のことを皆は理解してくれていたんじゃないかしら。
グループ分けの時は声をかけて行動を共にしてくれていたから。
感じてなかっただけ、ということもあり得る。
でも、感じてなかったなら、いじめられてなかったのと一緒じゃん、笑
一つ理由が思い当たる。
受験校で、トップクラスの成績だった私は
先生の覚えも愛でたく、一目置かれていたから。
わあ、鼻持ちならないわね、😅


地球上の生きとし生けるもの全てがまずは友達なんじゃないの?
昔助けてもらったから、なんてことはどうでもよくて
初対面でも、助けが必要なら助けるでしょ。
だって生きてるから友達だもん、笑
100人どころか、地球の総人口が友達の数。
勝ったね😅
でも逆にいうと、友達という概念がないので、友達はいない、とも言える、笑。


昔、不動産屋をしている時
部屋を探しにきて、理不尽な貸主のためにその日泊まるところを無くした黒人の学生を
自宅に連れて行って泊めた。1ヶ月ほど同居していた。
だって友達だから。まあ、そんな意識でしたわけではないけど、
少しでも関わった彼が、行くところがないならしょうがないじゃん。
私には自然なことだったが
一人暮らしだったので、周囲がびっくりしていた。
彼は紳士でした、念のため、笑


そんな生き方でたどり着いた今の一人暮らしの快適なこと。
独居老人でございます。
死後相当数の時間が経過して、発見された時はドロドロだった、って、私は別にいいわよ。
迷惑?死んだ私の知ったこっちゃない😅
だって、生き物だもの、
いつどこでどうやって死ぬかなんて決められないから。
後片付けが迷惑?
しょうがないじゃない、人は集団の中で生きているんだからお互い様。
死後の片付けは残った人の役目。
何でもかんでも迷惑、って言葉で片付けるんじゃないわよ。
生き物の死に方はいろいろ。
どう死んだって、惨めもクソも何もない。
たどり着く状態は一緒、息が止まって動かなくなるだけ。
お墓?供養?そんなもんに金を使うなら、
私は生きている間に美味しいものを食べた方が良い。
生きている人のために使った方が良い。
野晒し髑髏でも、私は全然オッケー。
死んでから迷惑をかけたくない、ってのは保険屋の常套句、笑
変な刷り込みはやめてくんない?
死体を放置して困るのは、生きている方でしょ。
だったら、生きている方が、嫌なら片付ける。
これは当たり前。
生き物の集団。
迷惑をかけてかけられて。


応仁の乱、とか、関ヶ原の戦い、とか、の頃って
その辺に死体、ごろごろしてたんじゃない。


痛いのと、寝たきりで長期間、というのだけは避けたい、笑
残された最大の課題。
いかにしてある日突然楽にポックリ死ぬか。

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