la vie est merveilleuse!

ふと思いついたことの徒然をゆっくりと

俺は客だぞ

今日お客さんと大喧嘩。
激しい言い合いの最中、他の3人のお客さんは黙って下を向いていた、笑
常連さんなんだけど、最近とみに態度がL。
確かにお店にくる人の中では一番上手だし、
回数も一番来るし、でちょっと私や他の人に言いたい放題が過ぎる、
と言う前振りがあって。


今日も1人の男性に、あまりひどいことを言ったので
それはちょっと、と注意をしたら
うるさい、こいつと俺の仲だから何を言っても良いんだ、って。
でも聞いていてあまり良い気持ちはしないし、もっと楽しくやって、
というようなやりとりがあった後、


うるさい、俺は客だぞ!


出ました。
この一言で、私の脳内で何かがプッチーン。


だからどうした!
俺は客だというのは、大っ嫌いだ!と、私


もう来んぞ!と彼


ああ、来るな!と私。


子供の喧嘩だ😅


私、一見Ladyなんですが
ふざけんな、馬鹿野郎、くらい言っちゃうんです(⌒-⌒; )


でも、
しばらくやり合った後、
普通に麻雀をして
また連絡する、と言って帰っていった。
多分また来る、かな、笑


新しい方が1人いたので
お見苦しいところをお見せしてすみません、と謝ったら
いやあ、良いですよ
言いたいことを言い合って、良いんじゃないですか。
大人な彼、笑
そう言うしかないですよねえ。


ダメなんですよ。
楽しくできない人は。
客がどうした、だからなんだ、って思ってしまう。
私の暇つぶしの店なんだから、私の気に入らない奴は来させない。
というわがままな店主のやっているお店です。
それでも来る人は来るし、楽しい雰囲気で、もう8年くらいになる。
ただし、赤字で毎月持ち出し😅
なんでやってるの?
ここがないと、私の暇が潰せない。
数少ないけど、ここに来るのが楽しみ、と言ってくれる独居老人もいる。
託児所ならぬ託老所、笑
集まって、話して遊べるところって、必要です。



いよいよ明後日デートです。
美味しいものが食べられるのが楽しみです、ってメールしたら
しばらくぶりに会って話ができるので
私はデートの方が楽しみです、って返してくれた彼氏さん。
もちろん、猫かぶってます、笑
なんて、嘘ですよ。
こんなお話でも、きっと笑って聞いてくれます。
以前、
何を言っても良いんですよ、
私は全部受け止めます、って言ってくれたんですもの。
第一、彼氏さんも喧嘩っ早いんですから、笑
昔、法務局で、無責任な職員の対応に腹を立てて
カウンターを乗り越えて中まで職員を追いかけた、という武勇伝の持ち主ですもん。
私も法務局で、公図と合わないと言って
中まで入って行って統括官と膝詰めしたことがあって
そもそも、それで意気投合😅

こんな夜中に料理かよ

どこかで似たような映画のタイトルがあったような、笑


年を重ねるとあるあるらしいのだが
夜中の2時3時に目が覚める。
しばらく寝る努力をしてもダメな時は起きて
ホットミルクにビスケットを添えて、ベッドに戻る。
気分はRoman holidayのヘプバーン、笑


たまに、エイやっと起きてしまって
思いついた料理を作り始める。
メインはこれ、サイドはこれ、とあれやこれやメニューを考えて。
思い通りに作り終えて食器を選んでテーブルセッティングをして写真を撮る。
その後ゆっくりいただく。
夜中の3時4時、時には5時になっている。
こんな夜中に料理かよ、笑
数少ない趣味の一つ。
そして、明け方もう一度眠りにつく。
時間に制約のない老人の特権😅


食べることが趣味、は父の影響だと思う。
父は、目端の利く人だったせいか、戦後の混乱期の物資のない中
闇屋のような仕事をいくつもして、家族には不自由をさせなかった。
一つ覚えているのは
米兵がジープで家に乗り付ける。
車からガソリンを抜く。
それをタクシー会社に高値で売る。
物資のない時代、飛ぶように売れたらしい。
ガソリンを抜いている間、米兵たちにいつもたくさんお菓子をもらった。
甘いものの貴重な時代。
砂糖がなくて、サッカリンが流通していた時代。
give me chocolateという単語を子供達が覚えて
米兵の車の後ろを追いかける、という時代。
私達がもらったお菓子目当てに近所の子供達が来る。
母がみんなに配っていた。


父は従軍している時の食べ物がひどかったとみえて、
食べるものにお金をかけることを惜しまなかった。
まだ物の不自由な時代だというのに、あちこちのレストランに家族で出かけた。
私達にお腹いっぱい食べさせるのが嬉しかったのだろう。
おかわりをしなさい、と言って必ずオーダーしていたが
行きつけのある銀座のレストランで、
すみません、お米が足りなくなったので、これで終わりにしてください
と断られたのをまだ覚えている。
世間は配給米だったのだ。
このレストランは、おめでとうございます、お店からです、と言って
誕生日には蝋燭を飾ったホールケーキをテーブルに届けてくれた。
よく行く寿司屋では奥の座敷に通され、寿司桶がいくつも並ぶ。
幼稚園の頃、築地のレストランでクロークにコートを預ける時
跪いた係の人が、お嬢様コートをお預かりします、と脱がせてくれた時の
特別感が、幼かったのにまだ思い出されて、胸をくすぐる。
その感覚が気に入って、よくねだっては連れて行ってもらった。
小公女気分?笑


しかし、おかげで兄弟揃って見事に肥満児だった😅


でもね、
洋食などまだ珍しかった頃だというのに
母の作ってくれたハンバーグやグラタンもなかなかのものでしたよ。


そして今、私は夜中に目が覚めて、気が向くと料理を作る。
美味しい物をつくる、その時間はけっこう楽しい。
その素地を作ってくれた両親に感謝。


さっき連絡があって
ラ・ベットラ・ダ・オチアイの予約を彼氏さんがしてくれた。
デート、デート!
さあ、何を食べよう、何を着て行こう。どんな時間を過ごそう。
今からワクワクする、笑

幸せの形

32歳の時、20歳になったばかりの彼と駆け落ちをした。
身一つで。
彼も仕事を辞め、逃避行の後
ドライバーの仕事につき、会社で借りてくれた4畳半一間に住むことができた。
彼がいるだけ。何もない。
お金もなかったので
彼が日当でもらってきた中から100円玉を数枚握りしめて
夕方の値引きされる頃に近所の商店街に買い物に行った。
仲良くなった魚屋さんや八百屋さんによくしてもらったっけ。
まな板もなく、新聞紙を広げてその上で食材を切った。
今では懐かしく思い出せる。
だって楽しかったんだもの。
彼がいて、それだけで。


彼の給与が恵まれなかったので
私が稼ぐ、とばかりに、笑
時給の良かった塾の講師の仕事について
お風呂付きの部屋に移り、
資格を取るために不動産業界に入った。
いきなりの給与が、歩合給なので、80万円。
天職、と思いましたね、笑。
時、バブルの時代の始まり。


不動産会社を興し、代表取締役に収まった。
時代のおかげか会社は順調だった。
以来20数年。
荻窪に家を買うまでになった。
仕事もしたし、主婦では考えられないほど遊んだし。
これは多分、父親の血脈、笑
彼には申し訳なかったかなあ😅
だって楽しかったんだもの。


そして、今。


親も看取り、全てやり終えて
10年前、会社を売り、家を売り、田舎で小さな家を買って
彼と2人でのんびり、と思って引き込んだ。
が、
落ち着くたまではなかったのかしら、笑
好きにしたかった私は、
協議の上、彼に出て行ってもらい、
偶然ながら雀荘をやることになり、
いまだに徹夜で遊ぶ。
こんな私を見捨てずに、優しい彼は何かあると飛んでくる。
今年65歳。20歳から。


私にはその上なんと、2回りも歳下の彼氏さんまでできてしまった。


これは想定外、笑


望外の幸せな形。


大切なこと
私の生きてきた道程には
泣いた人もたくさんいることを知っている。
でも私は、泣いた彼らをかわいそう、とは決して思わない。
彼らは彼らの人生を生きているのだから。
その経験の中で彼らが培われているのだから。
フィリピンのゴミの山でゴミを漁って生きている幼児も
かわいそうと思われたいとは思っていないだろう。
それが彼らの人生なのだから。
かわいそう、と思われた瞬間、彼らはかわいそうな人になってしまう。
私は、かわいそう、と言った人間をぶん殴る派、笑



春色の食卓
赤かぶのポタージュがレディカーライルによく似合う